八月十五日

・行動

 昼を家で食べてから、病院へ見舞いに行った。病室はいつも鉄っぽい匂いがする。雨が降った後の階段の手摺に近い。何故なのか。

 しばらくして新宿へ向かい、映画を観る。非常に良かった。

 帰り道で無性に酒が飲みたくなる。都営一日券を持っていたし、はじめは竹芝桟橋で飲もうとしていたが、あまりに蒸し暑いので断念した。地元のコンビニでストゼロ350mlを買って歩く。飲み場所のベンチを探すが中々見つけられず、やっと見つけたベンチにはGが腹向けて居座っている。諦めて歩きながら飲んだ。

 帰宅後、風呂のドアにGを見た。錯乱して飛び出た後、ゴキジェット片手に戻ってきたら誰もいない。何だったのか。ベンチのトラウマで幻覚を見たと思いたい。

 

・映画

 この世界の片隅へを観た。終戦の日ということで、片淵監督の挨拶付き上映であった。

 この映画を観るのはおそらく3回目であり、3年ぶりである。しかしながら内容をほとんど覚えていたことに驚いた。特に不発弾の所とか、右手を思い返す所は強く刻まれており、寸分違わず覚えていた。それでも喉が詰まった。目を背けずにいられたのは進歩である。

 全体的に作り込みが非常に丁寧な映画であると感じる。絵においてそれが如実なのは肌の色だろうか。例えば遊郭のりんさんとすずさんであったり、帰ってきた水原さんと周作さんであったり、病床に臥せっていた人々であったり、描き分けが非常に細かいと思う。暖色の光と湯気も、生活の表現としてとても印象に残るものだった。灯火と焼夷弾や、炊事の煙と炎上の煙や、金床雲ときのこ雲など、似ていながら決定的に違う日常と非日常の境界がしっかりと表現されている。後、最後に灯火管制が無くなって灯が付く所とか、拾ってきた子を風呂に入れて外に湯気が上がる所とか、生活が再開したんだなあという感があり、良かった。

 構成においても、すずさんの歴史という軸において変化が丁寧に描かれている。右手を失ってから景色が絵に見えなくなり、しかし最後の人攫いや沈んだ青葉の所では復活していてマジでこう......良かったなあって......良いとは言い切れんけど......

 また、人々の歴史を描くという点について、非常に台詞回しが上手いと思う。お義母さんの「大事だった頃が懐かしい」「明日も明後日もあるからねえ」はこれ以上なく市井の人々の観点である。玉音放送の後の怒りや、息子の死に気づかなかったやりきれなさなど、どこまでも等身大で、現実にいた人かのような表現である。

 主題歌も滅茶苦茶に良い。あの穏やかな曲調で「とてもやりきれない」と歌い上げるところは、この映画にピタリと合う歌であることを強く感じさせられる。

 

 映画が良いのは周知の事実であり、僕としても今回気付いたことが多かったとはいえ既知であった。しかしまあ監督インタビューがよかった。

 監督がお話の軸にされていたことは二つ、時間感覚と偏在性である。なんでも原作漫画は平成19年連載開始で、月連載の漫画の中ではS19~20年の対応する月に合わせた時間にしていたらしい。つまり、(連載を読んでいたのであれば)読者はすずさんと同じ時間軸を過ごすこととなる。ここで監督が強調していたのは、作中の重大な出来事のほとんどがS19年8月より後に起こる、ということである。S20年の沖縄上陸や呉空襲で亡くなった何十万何百万の人々は、S19の8月には当たり前に暮らしていたのである。19年の8月15日は春美さんもいた、という所で話を締められていた。一番刺さる所を持ってきている。

 また、あらゆる人々がその時までの歴史を持っている、ということを(あちこちのすずさんに関連して)語っていらした。「戦争中の悲劇は色々語られていて、それは一瞬だったり長かったりするが、必ず一人一人に歴史がある」というようなことを仰られていた。一人一人の歴史、百姓の歴史という面では民俗学の先達の思想に関わる所があり、私が大事にしている所でもあるので、言及されて嬉しかったし、監督の作りへの信頼感が爆上がりした。

 

 この映画の公開は2016年11月だったのだが、折しもS16年12月が太平洋回線とのことだった。今の2019年8月15日はS19年のそれと繋げられることとなる、と仰っていた。今日見られたことは価値のある事であったと思う。来年の同じ日にも見られることを願いたい。

 

・食事

昼はそば。夜はゴーゴーカレー

 

TODO

・最終楽章読む

・読んでるやつを読む

・旅行の準備